徳川家康の家臣「本多」といえば…【間違えたら恥ずかしい】関ヶ原の戦いに遅刻した軍師って誰だっけ?

  • 2026年01月06日公開

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こんにちは、ヨムーノ編集部です。

氷河期世代が青春時代に遊んだゲームといえば、KOEIの「三国志」や「信長の野望」が5本の指に入ると言っても過言ではない大人気ゲームでした。

さて、戦国の覇者・徳川家康を支えた「軍師」といえば、誰を思い浮かべますか?

今回のクイズの選択肢は、「本多忠勝」「本多正信」「本多正純」の3名。

実は正解の人物は、かつて家康を裏切り、あろうことか関ヶ原の戦いにも遅刻したという破天荒な過去を持っています。武力ではなく知略で家康の「知恵袋」となった人物は誰か、その正体を解説します。

りんごのイラスト/タワシ

軍師クイズ:徳川家康の軍師は誰?

織田信長には竹中半兵衛・黒田官兵衛、武田信玄には山本勘助、上杉謙信には宇佐美定行(軍記物)など、戦国武将には常に知恵袋となる軍師の存在が語られます。

では、徳川家康は誰を軍師として天下統一を果たしたのでしょうか?

「家康の軍師」と聞いて多くの人が連想する、次のうちの人物で、歴史上、家康の軍師としての役割を担ったとされる人物は誰でしょうか?

① 本多忠勝(ほんだ ただかつ)

② 本多正信(ほんだ まさのぶ)

③ 本多正純(ほんだ まさずみ)

正解は

②の本多正信(ほんだ まさのぶ)でした!

徳川家康には、織田信長の竹中半兵衛や黒田官兵衛のように、戦場での作戦指揮に特化した専任の「軍師」は存在しなかったとされています。

しかし、本多正信こそが、家康の「知恵袋」「参謀」として最も重要な役割を果たした人物です。

豆知識:正信が「軍師」と呼ばれる理由

本多正信が家康の「軍師」と呼ばれるのは、彼が「戦場での采配」よりも、「外交、調略(ちょうりゃく)、政治工作」といった裏の仕事を担当したからです。

戦略家

正信は、戦国時代後半から江戸時代にかけて、敵対勢力との交渉や情報収集、根回しといった、「天下統一」に必須な知略で家康を支えました。

出世のきっかけ

正信は、家康の家臣でありながら、かつて一向一揆(いっこういっき)に参加して家康に反旗を翻した過去があります。その経験から一度出奔しますが、後に呼び戻され、その非凡な才能で家康の信任を得ました。

家康は、「正信なくして天下統一なし」と言われるほど、彼を重用しました。

豆知識:本多忠勝と本多正信の関係

同じ「本多」姓を持っていますが、直接的な血縁関係は薄いとされています。

同じ「本多」姓でも、日本の武家社会では同姓の別家系が数多く存在します。
忠勝と正信は、その家系が異なるため、一族の人間として日常的に交流があったり、近い血縁があったりしたわけではありません。

むしろ、武断派の忠勝と文治派の正信は、意見が対立することも多かったことが知られています。家康は、この性質の異なる二人の本多をうまく使い分けることで、天下統一を成し遂げました。

豆知識:軍師なのに「関ヶ原」に遅刻した!?

家康の天下が決まった「関ヶ原の戦い」。
実は、軍師であるはずの本多正信は、この歴史的な決戦の場にいなかった(遅刻した)ことをご存知でしょうか?

秀忠の補佐として

正信は、家康の息子である徳川秀忠(後の2代将軍)の軍に、補佐役として同行していました。
しかし、真田昌幸・信繁(幸村)親子が守る上田城の攻略に手間取り、あろうことか関ヶ原の本戦に間に合わなかったのです。

家康の怒りと正信の役割

激怒した家康に対し、正信は秀忠を必死にかばい、とりなしたとされています。
彼が「戦場の軍師」ではなく「政治の参謀」であったことを象徴するように、正信の真価が発揮されたのは、戦いが終わった後の「幕府の仕組み作り」や「朝廷との交渉」といった政治の舞台でした。

この記事を書いた人
ヨムーノ 編集部

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