「武田信玄の幼名は…虎千代だよね?」【間違えたら恥ずかしい】実はライバルの名前だった!→「知ったかぶりしてた…」「勝ちへの執念が凄すぎる!」
- 2026年01月13日公開
こんにちは、ヨムーノ編集部です。
織田信長の「吉法師」や伊達政宗の「梵天丸」など、戦国武将には現代にはない独自の「幼名」がありました。
この記事では、武田信玄や上杉謙信ら名将たちの幼名をクイズ形式でご紹介。名前の由来や元服後の変遷、ライバル家康との因縁や「敵に塩を送る」逸話など、知っておくと歴史がもっと楽しくなる豆知識も満載です。あなたの歴史知識、何問正解できるか挑戦してみませんか?
りんごのイラスト/タワシ
「甲斐の虎」武田信玄の幼少期の名前は?
戦国最強と謳われた騎馬軍団を率い、上杉謙信と何度も激突した武田信玄(たけだしんげん)。
彼がまだ幼く、後の武将としての本名「晴信(はるのぶ)」を名乗る前に呼ばれていた真の幼名をご存知ですか?
織田信長の「吉法師」、上杉謙信の「虎千代」と並ぶ、武田信玄の幼名は何だったのでしょうか。
この記事では、「甲斐の虎」の幼少期の名前をクイズ形式でご紹介します。あなたの歴史知識に挑戦してみましょう!
次のうちから選んでみてください。

① 勝千代
② 梵天丸
③ 彦太郎
正解は……

正解は……①の勝千代(かつちよ)でした!
武田信玄は、幼い頃「勝千代(かつちよ)」という名前で呼ばれていました。「勝」という文字は、武士の家に生まれた嫡男として、生涯にわたる勝利が期待されていたことを示しています。
彼の生涯は、父・信虎を追放するところから始まり、その名に込められた「勝ち」への執念を体現するものでした。
ちなみに、他の選択肢は以下の通りです。
② 梵天丸(ぼんてんまる):伊達政宗の幼名です。
③ 彦太郎(ひこたろう):信玄は元服後「太郎」を通称としていましたが、「彦太郎」は織田信長の弟(織田信行)などが名乗った名前であり、信玄の幼名ではありません。
信玄の「名前の変遷」が複雑な理由
武田信玄は、その生涯で何度も名前を変えています。
勝千代(かつちよ):幼名
武田晴信(たけだ はるのぶ):元服(成人)後の正式な名前(諱:いみな)
この時、通称(仮名)として「太郎(たろう)」とも名乗っていました。
「晴」の字は、当時の将軍・足利義晴から偏諱(へんき:名前の一部)を与えられたものです。
- 武田信玄(たけだ しんげん):出家(仏門に入ること)後の法名(ほうみょう)
信玄は、出家した後も政治・軍事活動を続けたため、「武田信玄」という法名が、武将としての名前として最も有名になりました。
豆知識:孫子の兵法を禅僧から学んだ

武田信玄は軍師としての才能も優れており、中国の兵法書『孫子(そんし)の兵法』に深く精通していました。
彼が孫子の教えを学んだのは、主に禅僧を経由した説が有力です。当時の高名な禅僧は、仏教の経典とともに大陸の思想や兵法書を日本に持ち込み、知識人層に伝えていました。
『甲陽軍鑑』への反映

信玄の戦略や哲学が記された軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には、孫子の思想が色濃く反映されています。
特に有名なのが、信玄の旗印に掲げられた「風林火山」の四文字です。
- 「風林火山」:元々は孫子の兵法書の『軍争篇』にある一節です。
「其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐(しずか)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
信玄は、この孫子の教えを自軍の行動規範とすることで、その戦術の神髄を学んだと言われています。
兵法書自体の輸入
『孫子』は、鎌倉時代以降、日本にも書物として輸入されていましたが、戦国時代には武士の必須教養として広まり、信玄の手元にも書物として存在していた可能性が高いです。
しかし、それを深く理解し、自らの戦略に昇華させたのは、禅僧らの解釈や講義があったからこそだとされています。
豆知識:信玄が「全国区の英雄」になったのは50代、敗者家康のおかげ?
信玄は「甲斐の虎」として有名ですが、彼が全国にその武名を轟かせたのは、若い頃の信濃平定戦ではなく、50代になってからの晩年です。
名声を決定づけたのは、信玄が京を目指す「西上作戦」中に、徳川家康と衝突した三方ヶ原の戦い(1572年、信玄52歳)です。

この戦いで、信玄は若き家康軍を圧倒的な力で打ち破り、家康は命からがら居城へ逃げ帰りました。この「徳川家康が完膚なきまでに叩きのめされた」という強烈な敗北体験は、家康やその家臣団によって後年まで語り継がれました。
その結果、武田信玄の強さが「家康を震え上がらせた最強の敵」として全国に広まり、彼の死の直前に「戦国最強の武将」という名声が決定づけられたのです。
「土佐の出来人」長宗我部元親の幼名は?
四国統一を目指し、一代で土佐(現在の高知県)から四国全土を支配下に収めた名将、長宗我部元親。彼は若い頃、その内気な性格から「姫若子(ひめわかこ)」と呼ばれたこともありました。
この「土佐の出来人(できにん)」の幼少期の名前は、その後の彼の勇猛な活躍とは対照的な、どのような名前だったのでしょうか?
この記事では、長宗我部元親の幼少期の名前をクイズ形式でご紹介します。あなたの歴史知識に挑戦してみましょう!
次のうちから選んでみてください。

① 弥太郎
② 弥三郎
③ 万次郎
正解は……

②の弥三郎(やさぶろう)でした!
長宗我部元親は、幼い頃「弥三郎」という名前で呼ばれていました。
元親は、少年時代は色白で容姿が整っていたものの、口数が少なく、戦や武芸に興味を示さなかったため、家臣たちから「姫若子(ひめわかこ)」と揶揄されることもありました。
しかし、初陣である長浜の戦いでその内気な性格が一変し、武将としての才能を開花させます。この「姫若子」から「土佐の出来人」へと変わったギャップが、彼の人気を支える要因の一つです。
① 弥太郎(やたろう): 岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)の幼少期の名前です。
NHK大河ドラマ福山雅治さん主演「龍馬伝」では、岩崎弥太郎役を香川照之さんが演じて認知度が爆上がりしました。
後の歴史に名を残す偉人たちは、みな古風な幼名を持っていたことが分かりますね。
豆知識:「四国統一」は達成できた?できなかった?

長宗我部元親は「四国統一を達成した」というイメージがありますが、厳密には「四国をほぼ支配下に収めたが、豊臣秀吉の介入により、完全統一はできなかった」というのが正確です。
豆知識:長宗我部家の「豊臣への忠誠」が招いた末路
長宗我部元親とその後継者たちは、豊臣秀吉の天下統一の過程で、豊臣政権下に入らざるを得ませんでした。
1. 豊臣への従属(元親の時代)
長宗我部元親は、1585年の秀吉による「四国攻め」で降伏し、四国統一の夢を断念しました。この時、元親は土佐一国のみを安堵(領有を許される)され、豊臣大名として組み込まれました。この時点から、長宗我部家は豊臣政権の家臣団の一員となります。
2. 関ヶ原の戦いと滅亡(盛親の時代)
元親の死後、家督を継いだ長宗我部盛親(もりちか)の時代、天下は徳川家康と豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の二大勢力に分かれます。
豊臣への忠誠: 盛親は、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍(豊臣方)に加わりました。これは、秀吉への恩義や、家康に対する警戒心があったためと言われます。
- 改易(かいえき): 戦いは東軍(徳川方)の勝利に終わり、盛親は所領を失い、改易(大名家の取り潰し)となってしまいました。
3. 最後の抵抗
その後、盛親は再起をかけ、大坂の陣(1614年〜1615年)で豊臣方として徳川家康と戦いますが、敗れて処刑されました。
したがって、長宗我部家は、時代が豊臣から徳川へ移る過渡期に「豊臣派」としての忠誠を貫いた結果、大名家として滅亡の道を辿ったのです。
独眼竜政宗、幼少期の名前は?
伊達政宗の幼少期の名前をクイズ形式でご紹介します。あなたの歴史知識に挑戦してみましょう!
次のうちから選んでみてください。

① 梵天心
② 梵英心
③ 梵天丸
正解は……

③の梵天丸(ぼんてんまる)でした!
伊達政宗は、幼い頃「梵天丸」という名前で呼ばれていました。
この「梵天」とは、仏教を守護する神様である梵天(ぼんてん)に由来する名前です。
両親は、この名に「仏神の加護を得て、強く立派に育ってほしい」という願いを込めたとされています。幼い頃に天然痘を患い、片目を失明するという運命に見舞われましたが、その困難を乗り越え、後に天下にその名を轟かせました。
政宗の幼名「梵天丸」は、その後の彼の波乱万丈な人生を予期させるような、強い願いが込められた名前だったのです。
豆知識:幼名「梵天丸」と、もう一人の政宗
政宗が名乗った「政宗」という名前は、実は伊達家の中興の祖とされる室町時代の名将、伊達政宗から受け継いだものです。
- 梵天丸が受け継いだ名前:伊達家第9代当主(室町時代)の伊達政宗
戦国の伊達政宗:幼名から改名後、自身が受け継いだ偉大な名と同じ名将に負けないように、強く意識していたと言われています。
戦国の伊達政宗が先祖から継いだのは「政宗」という名前(諱:いみな)であり、伊達家の誇りと、家を再興する期待が込められていました。
豆知識:独眼竜政宗の「平和な晩年」

織田信長が本能寺の変で、上杉謙信が病死で急逝したのに対し、伊達政宗は江戸幕府の基礎が固まった後も生き続け、大名としての地位を保ったまま亡くなりました。
1. 江戸幕府での地位確立
豊臣秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは徳川方として参戦しました。
その後、仙台藩62万石の礎を築き、家康の天下が確立した後も、幕府内で一定の発言力を持つ有力大名としての地位を確立しました。
2. 晩年の外交と挑戦
政宗の晩年で最も有名なのは、1613年に家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)を経てローマへ派遣したことです。
これは「慶長遣欧使節団」と呼ばれ、伊達家単独での、鎖国体制が固まる直前の最後期の外交的な試みとなりました。(※これ以前に「天正遣欧少年使節」が派遣されています)
3. 天寿を全う
政宗は、江戸幕府第3代将軍である徳川家光の時代まで生き、1636年に70歳で病死しました。
戦国時代を生き抜き、天下人たちに翻弄されながらも、巧みな外交術で家と領土を守り抜き、平和な時代に入ってから大往生を遂げたという点で、彼は数少ない「勝者」の一人と言えます。
上杉謙信の幼名は?
戦国武将の幼少期の名前は、その後の運命を予期させるような意味が込められていることもあります。
この記事では、上杉謙信の幼少期の名前をクイズ形式でご紹介します。あなたの歴史知識に挑戦してみましょう!
次のうちから選んでみてください。

① 虎千代
② 雲洞庵
③ 吉法師
正解は……

①の虎千代(とらちよ)でした!
上杉謙信は、幼い頃「虎千代」という名前で呼ばれていました。これは、虎のように強く、たくましく育ってほしいという、家を継ぐ者に対する願いが込められた名前です。
若くして越後の国主となり、敵対した関東管領家の家督を継いで「上杉」姓を名乗るまで、彼は長尾景虎(ながおかげとら)という名前を名乗っていました。
彼の幼名にも、本名にも「虎」の文字が入っているのは、非常に興味深いですね。
▲雲洞庵
雲洞庵(うんとうあん)はお寺の名前です。
新潟県南魚沼市にあるお寺で、上杉景勝(謙信の養子)と、その重臣である直江兼続が幼少期に修行した場所として有名です。
吉法師は織田信長の幼名です。
豆知識:潔すぎる義侠心「敵に塩を送る」

上杉謙信の武士としての高い倫理観を象徴する有名な逸話が「敵に塩を送る」です。
川中島の戦いで激しく争ったライバル、武田信玄は、ある時、同盟国であった今川氏などによって領国(甲斐:山梨県)への塩の供給路を絶たれてしまいました。当時、塩は食料だけでなく生活に不可欠なもので、領民は大変な苦境に立たされました。
この状況を知った謙信は、「武士の戦いは弓矢で決するものであり、兵糧攻めのような外道はしない」として、信玄に越後(新潟県)から塩を送ったとされています。
この逸話から、「敵の弱みにつけ込まず、かえって助ける」という義侠心のある行為を「敵に塩を送る」と言うようになりました。
ちなみに、戦で民百姓が苦しまないため戦場を川中島にすることや塩を武田側に送ることを勧めたのは雲洞庵十世(10代目)住職の北高全祝(ほっこうぜんしゅく)であると言われています。
【南魚沼・湯沢の魅力】雲洞庵(うんとうあん) - 新潟県ホームページ
豆知識:現代に受け継がれる「川中島ダービー」の因縁

上杉謙信と武田信玄の因縁深い戦いといえば、川中島の戦いです。
この歴史的なライバル関係は、現代のJリーグにも受け継がれており、両者にゆかりのあるチームが対戦する際に「川中島ダービー」と呼ばれています。
川中島ダービーの対戦カード
- 上杉軍(越後)の末裔:アルビレックス新潟(新潟県)
- 武田軍(甲斐)の末裔:ヴァンフォーレ甲府(山梨県)
過去の対戦成績(Jリーグ公式戦)J1およびJ2リーグでの公式戦における両チームの通算対戦成績(2024年シーズン終了時点)は以下の通りです。
- アルビレックス新潟 15勝10分11敗
- ヴァンフォーレ甲府 11勝10分15敗
現在のところ、アルビレックス新潟がわずかにリードしています。歴史上のライバル対決と同じく、現代のJリーグでも熱い戦いが繰り広げられています。
織田信長の幼少期の名前は?
誰もが知るこの信長ですが、彼がまだ幼く、尾張の城下町で奔放に育っていた頃、どのような名前で呼ばれていたかご存じですか?
次のうちから選んでみてください。

① 竹千代
② 日吉丸
③ 吉法師
正解は……

③の吉法師(きっぽうし)でした!
織田信長は、幼い頃「吉法師」という名前で呼ばれていました。
当時、吉法師は城下を走り回り、奇抜な服装をしていたため、周囲からは「尾張の大うつけ(大馬鹿者)」と陰口を叩かれていました。
しかし、この型破りな行動こそが、後の天下統一への道を切り開く、信長らしい独創性の表れだったのかもしれません。
ちなみに、他の選択肢は戦国時代の有名な武将の幼少期の名前です。
① 竹千代(たけちよ): 徳川家康の幼少期の名前です。
② 幸千代(ゆきちよ): 豊臣秀吉の最初の幼名(伝承による)として知られる名前です。また「日吉丸(ひよしまる)」という説もあります。
このように、後の天下人たちは、みな「~千代」「~法師」といった古風な幼名を持っていたのです。
豆知識:なぜ、現代は「幼少期の名前」がないの?

戦国武将が幼少期と成人後で名前を変えたのは、「元服(げんぷく)」という成人儀礼が大きく関係しています。
1. 昔の武将は「成人したら改名」がセットだった
昔の日本には、子どもから大人になるための儀式「元服」がありました。この儀式で、烏帽子(えぼし)をかぶり、髪型を変え、同時にそれまで使っていた幼名を廃して新しい本名(諱:いみな)を名乗るのが慣習でした。
幼名(吉法師、竹千代など)は、魔物から子どもを守るための縁起かつぎや、健康を願う親の愛情が込められた「子どもの名前」だったのです。
2. 「元服」が廃止され、幼名も消えた
この元服の習慣は、明治時代以降に廃れていきました。
明治29年(1896年)に民法が制定され、満20歳で一律に「成人」と定められたことで、伝統的な元服の儀式は社会的な意味を失います。
「成人になったら名前を変える」という慣習そのものがなくなったため、現代では、生まれた時に付けた名前をそのまま使い続けるのが一般的になりました。
幼名の習慣が消えた「最後の世代」は?
幼名の習慣が残っていた最後の世代として有名なのが、江戸幕府の終焉と明治維新の立役者たちです。彼らは、伝統的な武家の慣習に則り、幼名から本名に改名した「最後の著名人」となりました。
徳川慶喜(最後の将軍)の幼名:七郎麻呂(しちろうまろ)
勝海舟(幕末の政治家)の幼名:麟太郎(りんたろう)
伊藤博文(初代内閣総理大臣)の幼名:利助(りすけ)
これらの人物の存在は、日本から幼名と元服の習慣が消え、現代に通じる名前の仕組みへと移行した、歴史の節目を物語っています。
「くらしをもっと楽しく!かしこく!」をコンセプトに、マニア発「今使えるトレンド情報」をお届け中!話題のショップからグルメ・家事・マネー・ファッション・エンタメまで、くらし全方位を網羅。
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